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歌川豊国画『江戸自慢三十六興 向嶋堤ノ花并ニさくら餅』

category - 未分類
2017/ 07/ 22
                 
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歌川豊国画『江戸自慢三十六興』
上掲の画像は、歌川豊国画『江戸自慢三十六興 向嶋堤ノ花并ニさくら餅』

日本記念日協会の今日7月22日の記念日に「下駄の日」があった。由緒は、以下のように書かれていた。
” 下駄の生産業者などで結成された全国木製はきもの業組合連合会が、伝統的なはきものの下駄のよさを見直してもらおうと設けたもの。下駄の寸法に「七寸七分」など7の数字がよく使われること、雪道を下駄で歩くと漢字の二の字に似た跡が残ることから7月22日とした。 ”・・・と。

詳しくは本館「老いの愉しみ」の以下のページを見てください。


下駄の日
            
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風神雷神図屏風

category - 絵画Ⅰ浮世絵・錦絵
2017/ 07/ 09
                 
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風神雷神図屏風
①俵屋宗達筆・屏風画「風神・雷神図」


上掲①の画像は、江戸時代初期の画家俵屋宗達筆の描いた屏風画「風神・雷神図」である。
風神・雷神図とは、風袋から風を吹き出し、下界に風雨をもたらす風神と、太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神の活動の姿を描写する絵画であるが、俵屋宗達筆のこの屏風画が有名で、琳派の絵師をはじめ、多くの画家によって作られた模作や模写が多数ある。
風神雷神を一対として扱う像容は古くから仏教美術において見られ、すでに、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えていたというたイラン系カニシカ王統治下の王朝クシャーナ朝では疾駆する風神を描いたコインが作られているそうだ(風神の図像の変遷参照)。また、敦煌石窟(中国の敦煌郊外、鳴沙山の山腹にある石窟寺院莫高窟)の壁画では風袋を携えた、風神と太鼓を輪形に並べて捧持する雷神が描かれている。

詳しくは本館「老いの愉しみ」の以下のページを見てください。


風神雷神図屏風
                         
                                  
        

上野公園内国勧業第二博覧会美術館并猩々噴水器之図

category - 未分類
2017/ 06/ 18
                 
三代歌川広重・猩々噴水器之図
『上野公園内国勧業第二博覧会美術館并猩々噴水器之図』
三代歌川 広重画

上掲の錦絵は、江戸時代から明治時代にかけての浮世絵師・三代目 歌川 広重の描いた『上野公園内国勧業第二博覧会美術館并猩々噴水器之図』(東京国立博物館所蔵)である(ここクリックで超拡大図が見れる)。なお、以下では、歌川周重(守川周重) の第二内国勧業博覧会時の上野公園の全体図(鳥瞰図)が見れる。

上野公園地第二内国勧業博覧会一覧図-文化遺産オンライン

詳しくは本館「老いの愉しみ」の以下のページを見てください。


上野公園内国勧業第二博覧会美術館并猩々噴水器之図
                         
                                  
        

歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」(油屋騒動)

category - 絵画Ⅰ浮世絵・錦絵
2017/ 06/ 09
                 
「伊勢音頭恋寝刃」.
歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」の浮世絵(三代豊国作)

油屋騒動とは、寛政8年5月4日(1796年6月9日)夜、伊勢古市の・妓楼(遊女を置いて、客を遊ばせることを業とする店。遊女屋。女郎屋)「油屋」で、医師・孫福 斎(まごふく いつき)が酒に酔って起した刃傷事件である。
斎の相方で馴染みの遊女お紺が、斎の座敷がおもしろくなかったのか、途中で呼ばれて他の客の部屋に移り、その後なかなか現れないことに、侮辱されたと感じて憤るが、下男下女になんとかなだめられていったんは帰ろうとするも、玄関口で脇差を返されると、酒に酔っていた斎は、腹の虫が収まらなかったのか、下女の一人に切りつけ、ついで下男にも切りかかり、そのうち、狂乱状態に陥った斎は、お紺を探して部屋に駆け戻り、脇差を振り回し、目の前に現れた人物に次々と切りつけ、3人を斬り殺し、6人を負傷させたという。
この事件は伊勢参り に来た参拝客によって瞬く間に日本中に知れ渡り、有名になったお紺を見ようとする客で油屋は大繁盛したそうだ。又、この騒動はたちまち大阪に伝わり、道頓堀の立作者(座付狂言作者中の第一人者) 近松徳三の知るところとなり、数日にして切狂言(きりきょうげん=歌舞伎芝居の大切り。江戸時代の歌舞伎で、二番目狂言【世話物】の最終幕。幕末以後の歌舞伎では、二番目狂言のあとにつける一幕物。)にしくまれ、伊勢音頭恋寝刃(いせおんど  こいのねたば)と題し、福岡貢(芝居での孫福斎の名前)を三代目坂東彦三郎によって、同年7月には大坂の角座で上演され、各地で好評を博したという。私は歌舞伎に詳しくはないが現在でも上演回数の多い演目だそうである。因みに、油屋騒動を起こした斉は逃げ切れず事件の10日後に自殺(27歳)。又、お紺はなんとか無事に逃げ伸びたが、49才で病死したそうだ。

詳しくは本館「老いの愉しみ」の以下のページを見てください。


油屋騒動(Ⅰ)
                         
                                  
        

赤松之城水責之図

category - 絵画Ⅰ浮世絵・錦絵
2017/ 06/ 03
                 
赤松之城水責之図
「赤松之城水責之図」(東京都立中央図書館所蔵)
ここクリックで拡大図が見られる.。

天正10年6 月3日(西暦:1582年6月22日)中国地方の雄毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を水攻め中の羽柴秀吉軍が、この日、毛利方に「本能寺の変」を知らせる使者を捕え、その一報を知る。織田信長の死を秘匿しつつ、翌4日毛利家と和睦し、城主清水宗治の切腹を見届けた秀吉は、明智光秀を討つため、中国大返しで畿内に戻り、6月13日からの山崎の戦いで光秀を破り織田 信長の実質的な後継者の道を歩むことになる。
これとは別に、和歌山市立博物館には、歌川国芳の門人一猛齋芳虎(歌川 芳虎の画号)の描いた「水攻防戦之図」もある。以下参照。

水攻防戦之図・赤松水攻之図 文化遺産オンライン

上図は、秀吉が本陣をはった石井山から水攻めの様子を眺めた構図をとっている。

詳しくは本館「老いの愉しみ」の以下のページを見てください。

赤松之城水責之図
                         
                                  
    
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