絵画Ⅰ浮世絵・錦絵

        

小林永濯肉筆画「天瓊を以て滄海を探るの図」

category - 絵画Ⅰ浮世絵・錦絵
2017/ 09/ 04
                 
イザナギ・イザナミ

上掲の画像は、小林永濯の肉筆画「天瓊を以て滄海を探るの図」(ボストン美術館所蔵。1880年半ばの作品とされる(Wikipediaより。画像はクリックで拡大)。 画は、日本神話(『古事記』『日本書紀』)に登場するイザナギ(向かって左)と、イザナミ(右)の二人が、天の橋に立っており、矛で混沌をかき混ぜて島(日本)を作っているところである。
作画者、小林 永濯(1843-1890 )は、幕末-明治時代の画家。名は徳直または徳宣。俗称は秀次郎。「鮮斎永濯」と号し、他に、永躍、永瑞、霞堂、永洲、夢魚、梅花堂等多くの号を有す。

詳しくは本館「老いの愉しみ」の以下のページを見てください。

「くしの日」に、小林 永濯画「天瓊を以て滄海を探るの図」?
            
スポンサーサイト
            
                                  
        

風神雷神図屏風

category - 絵画Ⅰ浮世絵・錦絵
2017/ 07/ 09
                 
強調文強調文
風神雷神図屏風
①俵屋宗達筆・屏風画「風神・雷神図」


上掲①の画像は、江戸時代初期の画家俵屋宗達筆の描いた屏風画「風神・雷神図」である。
風神・雷神図とは、風袋から風を吹き出し、下界に風雨をもたらす風神と、太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神の活動の姿を描写する絵画であるが、俵屋宗達筆のこの屏風画が有名で、琳派の絵師をはじめ、多くの画家によって作られた模作や模写が多数ある。
風神雷神を一対として扱う像容は古くから仏教美術において見られ、すでに、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えていたというたイラン系カニシカ王統治下の王朝クシャーナ朝では疾駆する風神を描いたコインが作られているそうだ(風神の図像の変遷参照)。また、敦煌石窟(中国の敦煌郊外、鳴沙山の山腹にある石窟寺院莫高窟)の壁画では風袋を携えた、風神と太鼓を輪形に並べて捧持する雷神が描かれている。

詳しくは本館「老いの愉しみ」の以下のページを見てください。


風神雷神図屏風
                         
                                  
        

歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」(油屋騒動)

category - 絵画Ⅰ浮世絵・錦絵
2017/ 06/ 09
                 
「伊勢音頭恋寝刃」.
歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」の浮世絵(三代豊国作)

油屋騒動とは、寛政8年5月4日(1796年6月9日)夜、伊勢古市の・妓楼(遊女を置いて、客を遊ばせることを業とする店。遊女屋。女郎屋)「油屋」で、医師・孫福 斎(まごふく いつき)が酒に酔って起した刃傷事件である。
斎の相方で馴染みの遊女お紺が、斎の座敷がおもしろくなかったのか、途中で呼ばれて他の客の部屋に移り、その後なかなか現れないことに、侮辱されたと感じて憤るが、下男下女になんとかなだめられていったんは帰ろうとするも、玄関口で脇差を返されると、酒に酔っていた斎は、腹の虫が収まらなかったのか、下女の一人に切りつけ、ついで下男にも切りかかり、そのうち、狂乱状態に陥った斎は、お紺を探して部屋に駆け戻り、脇差を振り回し、目の前に現れた人物に次々と切りつけ、3人を斬り殺し、6人を負傷させたという。
この事件は伊勢参り に来た参拝客によって瞬く間に日本中に知れ渡り、有名になったお紺を見ようとする客で油屋は大繁盛したそうだ。又、この騒動はたちまち大阪に伝わり、道頓堀の立作者(座付狂言作者中の第一人者) 近松徳三の知るところとなり、数日にして切狂言(きりきょうげん=歌舞伎芝居の大切り。江戸時代の歌舞伎で、二番目狂言【世話物】の最終幕。幕末以後の歌舞伎では、二番目狂言のあとにつける一幕物。)にしくまれ、伊勢音頭恋寝刃(いせおんど  こいのねたば)と題し、福岡貢(芝居での孫福斎の名前)を三代目坂東彦三郎によって、同年7月には大坂の角座で上演され、各地で好評を博したという。私は歌舞伎に詳しくはないが現在でも上演回数の多い演目だそうである。因みに、油屋騒動を起こした斉は逃げ切れず事件の10日後に自殺(27歳)。又、お紺はなんとか無事に逃げ伸びたが、49才で病死したそうだ。

詳しくは本館「老いの愉しみ」の以下のページを見てください。


油屋騒動(Ⅰ)
                         
                                  
        

赤松之城水責之図

category - 絵画Ⅰ浮世絵・錦絵
2017/ 06/ 03
                 
赤松之城水責之図
「赤松之城水責之図」(東京都立中央図書館所蔵)
ここクリックで拡大図が見られる.。

天正10年6 月3日(西暦:1582年6月22日)中国地方の雄毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を水攻め中の羽柴秀吉軍が、この日、毛利方に「本能寺の変」を知らせる使者を捕え、その一報を知る。織田信長の死を秘匿しつつ、翌4日毛利家と和睦し、城主清水宗治の切腹を見届けた秀吉は、明智光秀を討つため、中国大返しで畿内に戻り、6月13日からの山崎の戦いで光秀を破り織田 信長の実質的な後継者の道を歩むことになる。
これとは別に、和歌山市立博物館には、歌川国芳の門人一猛齋芳虎(歌川 芳虎の画号)の描いた「水攻防戦之図」もある。以下参照。

水攻防戦之図・赤松水攻之図 文化遺産オンライン

上図は、秀吉が本陣をはった石井山から水攻めの様子を眺めた構図をとっている。

詳しくは本館「老いの愉しみ」の以下のページを見てください。

赤松之城水責之図
                         
                                  
        

歌川国亭筆『雪のあした』

category - 絵画Ⅰ浮世絵・錦絵
2017/ 06/ 02
                 
雪の日の井戸端会議
歌川国亭筆『雪のあした』(部分)「雪の日の井戸端会議」の様子

日本記念日協会に登録の6月2日の記念日に、「路地の日」がある。
由緒を見ると「歴史と文化の町、長野県下諏訪町には、昔からの裏道や路地が多い。このかけがえのない路地を愛し、その風情を楽しみ、いつまでも残していこうと活動を続けている「下諏訪の路地を歩く会」が制定。日付は6と2で「路地」と読む語呂合わせから。」・・・とある。
かつては中山道甲州街道が分岐する宿場として賑わった下諏訪町は、もともと信濃国諏訪郡の一部であった。平安時代には土武郷と呼ばれていたそうだ。
諏訪湖や八島ヶ原湿原、下諏訪温泉、諏訪大社などがある観光地で、諏訪大社の門前町として栄えた。

詳しくは本館「老いの愉しみ」の以下のページを見てください。


路地の日